2025.09.10
新学期が始まり、朝の通学路は元気よく学校に向かう子どもたちでいっぱいである。その一方で、不登校のニュースが連日取り沙汰されている。小中学校の不登校児童生徒の数は、いまや過去最多を更新し続けていると言う現実がある。文部科学省の統計によれば、全国で約30万人を超える子どもたちが学校に通えていない。それでもなお、学校も行政も「驚き」「憂慮」と言葉を並べるばかりで、この間、一度も抜本的な改革を打ち出せないまま、同じ轍を踏んでいる。これはもはや「現象」ではなく、大人社会の「失態」であると思う。
失態の第一は学校である。それは多様性を受け入れ損ねたことであろう。一斉授業、画一的な校則、そして「みんなと同じであること」を善とする管理主義。そこから外れる子どもを「問題児」と見なし、時に指導の名のもとで切り捨ててきた。子どもに合わせるのではなく、子どもを枠に押し込めて来た教育。その結果、居場所を失った子が教室から姿を消して行くのは当然の帰結だと思う。
また、行政の失態も大きいと思う。フリースクールやICT活用などの対策は一見先進的に映るが、実態は「統計上での負を減らすための数字合わせ」にすぎないように思えてならない。子どもが孤立から救われることよりも、出席扱いにする制度設計ばかりを進めて来たように映る。現場の教員の多忙さや、子どもとじっくり向き合う余裕のなさに手を打たないまま、見かけの施策を積み上げているようにしか見えない。これは根本治療を避けたまま、鎮痛剤だけを投与する医療と同じである。
そして、不登校に対する根強い偏見がある社会の失態もあるだろう。「怠けている」「親のしつけが悪い」といった言葉が、子どもと家庭を二重に追い詰めてきた。居場所を失った子にとって、学校の外ですら理解者を得られない状況は絶望的だと思う。本来は支えるべき大人が、弱者を非難し、責任を押しつける。その醜悪さこそ、子どもたちの心を閉ざしてきたのではないだろうか。
不登校は子どもの問題ではない。大人の社会がつくりだした「教育の失敗」の証のひとつであろう。にもかかわらず、学校は「登校させること」に、行政は「統計を改善すること」に、社会は「責任を転嫁すること」に執着してきた。その三重の失態が積み重なった結果が、いま目の前にある不登校の激増に繋がって来たのではないだろうか。
学校は「来させる場所」ではなく、創意工夫をして「来たくなる場所」でなければならないといつも言ってきた。にもかかわらず、現場の思考は「欠席をどう減らすか」に固守されている。子どもの声を聴き、学び方や関わり方の柔軟な選択肢を整える姿勢が欠けている限り、不登校は減るどころか、さらに増えて行くのだと思う。
不登校の増加は子ども個人のせいではない。私たち大人の怠慢であり、教育制度の不全であり、社会全体の不見識であろう。この「失態」を直視せずに、数字だけの報告に終始し続けるならば、将来、私たちは「子どもを守れなかった世代」として断罪されるに違いない。