2025.11.10

先日、区立中学校の文化祭を見学する機会があった。会場は年季の入った体育館。老朽化のためか、後付けの耐震補強で太い鉄骨がX字に張り巡らされており、少し圧迫感のある空間だった。
学年ごとに時間をずらして合唱発表会が行われ、生徒たちは1階に並べられた椅子にクラスごとに整列し、保護者は2階の観覧席から見守るという配置であった。
文化祭のメインは、この「合唱コンクール」。課題曲と、各クラスが選んだ自由曲の計2曲で競い合う形式であった。プログラムを見て、私は驚いた。音楽には比較的関心がある方だが、どれも聞き覚えのない曲ばかりだったのだ。
課題曲はともかくとして、自由曲までがどれも同じような「合唱専用曲」。生徒たち自身が発想し、話し合って決めたとは到底思えない選曲だった。
学年全てのクラスの合唱を聴き終えたが、正直なところ、何が良くて何が素晴らしかったのかが感じ取れなかった。中学生といえば思春期の真っ只中。文化祭は、日頃の授業とは違い、自分たちなりに表現し、エネルギーを発散できる貴重な場であるはずだ。
しかし、この日の合唱からは「やらされている」感の空気が伝わってきた。先生の指示に従って形だけ取り組んでいるようで、活気もなくクラス一丸となって歌っているようにはとても見えなかった。結果として、どのクラスが良かったのかという印象も残らなかった。
せめて自由曲くらいは、生徒たち自身が好きな、今の流行りの曲などを選べるようにしてもよいのではなかっただろうか。そうすれば工夫も加わり、もっと生き生きとした合唱になり、観覧している保護者の心にも響いたはずだと思う。
この小さな疑問の中に、今の教育の問題点が象徴されている気がしてならない。封建的な社会が長く続いた日本では、教育現場でも「管理」が先に立ってしまうのだろう。
もちろん、子どもの命を預かる現場として安全管理は欠かせない。しかし、それ以外に細々した管理事が多すぎる。管理事で縛るより大切なのは、子どもたちと真に心を通わせ、「共感」を育むことではないだろうか。教育の原点とはそう言ったものだと思っている。
かつて教育実習に行った際、指導教諭がこう言っていた。
「私たちは“生き物”を扱っている仕事。だから決して腐らせてはならない。」と。
その言葉が今も胸に残っている。創意工夫のない、指導要領に沿うだけの授業にどれほどの価値があるのだろう。時代は急速に変化しているのに、学校だけが変わらず同じことを繰り返す。それが本当に「教育」と呼べるのだろうか。
今の教科教育の中でも、同じような「形だけの指導」が広がってはいないか。
子どもたちは、静かに“腐らされている”のではないか——。