2025.08.10
私は普段、政治の権力争いにはほとんど興味がない。しかし、先月の参議院選挙では、外国人に対する「差別」とも受け取れる政策を掲げた政党が、若い世代から多くの支持を集め、大きく躍進したことに驚かされた。
「日本も終わりだな。若い世代は何を習ってきたのか。自分たちだけの幸せ追求でいいのか。世界中に困っている人がどれだけいると思ってるのか、この人たちのことを考えなくていいのか」と。そんな思いが頭をよぎった。
単一民族国家として世界でも稀な日本では、どうしても思考が内向きになりやすいのかも知れない。だが、かつて日本は「世界に追いつけ」「ワールドスタンダードを目指せ」と叫んできたはずだ。その流れに逆行するような今回の出来事には、深い残念さを覚える。政党も支持者も、「これは『差別』ではなく『区別』だ」と主張している。だが、見方によっては「差別」と紙一重であることも否めない。言葉の選び方や使い方で、印象が大きく変わるのだ。
こうした線引きを考える中で、私はふと「通級指導」という言葉を思い出した。「通級指導」とは、小・中学校の通常学級に在籍する軽度の障害を持つ児童・生徒が、学習や生活における困難を克服するために、必要に応じて特別な指導を受ける制度である。基本は通常の学級で学びながら、通級指導教室という別の場で、個別の支援を受けることができる仕組みだ。
対象となるのは、言語障害、自閉症、情緒障害、学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、弱視、難聴、肢体不自由などを抱える子どもたちである。この制度は、文部科学省の説明ではあくまで「学習指導上の区別」であるとされており、私自身もその考えに賛同している。
しかし一方で、この制度を「教育上の差別だ」と感じる保護者が一定数いることも事実だ。その是非は簡単に決められるものではない。「区別」と「差別」の境界線は非常に繊細であり、ときに大きな議論を生む。
現場の教育においても、「区別」が「差別」へと変化してしまう例は少なくない。たとえば、通常の学級でともに学んでいる子どもが、ある時間になると別室に移って特別な指導を受ける。これが「学習的区別」であると子どもたちに理解させるのは、特に低学年では難しい。
子どもは、時に無邪気でありながら、非常に残酷でもある。「この子はできないから一緒にやらない」「障害があるから仕方ない」。そんな言葉が、罪悪感なく交わされる場面も珍しくない。大人の世界と違い、子どもたちの世界では、「区別」と「差別」の違いを直感的に理解するのは難しいのだ。
しかし、私はそれでよいと思っている。子どもたちは完璧ではない。だからこそ、「通級指導」のような制度を通して、学年が進むにつれ、少しずつ「区別」と「差別」の違いを理解していけばいい。 「区別」は教育のために必要な配慮であり、「差別」は人として絶対にしてはならない行為である。そのことを、ゆっくりでも、しっかり学んでほしいと願っている。
*辞書を引くと、「区別」とは物事の違いを理解し、それに応じて対応を変えることであり、客観的かつ合理的な行為であるとされている。一方、「差別」は、正当な理由なく特定の集団や個人を不当に扱うことであり、許されざる行為とされている。