COLUMN

コラム

2021.07.13

限りある学校教育

公立の小・中学校が土日の2日間休みになって久しい。今は社会的にかなり浸透し、我が国の教育文化のひとつになっている。当初は学校が2日間休みになることで塾や共働き、子どもの保護の問題などが社会問題化したこともあった。
子どもの教育は誰に責任があるのだろうか。こう問いかけると決まって大半の親は「学校」と答えが返ってくる。私は間違えであると思っている。では学校の教育とは何だろうか。何を教えるのだろうか。
寺子屋からはじまり現代のような教育環境がなく整備されていなかった時代、教育とは「読み・書き・そろばん」と明確な答えが返って来た。単純に「人間として生きるために最低限必要な、読める、書ける、計算が出来る」を教えていたのである。このような教育でも多くの知識人や才能溢れる偉人がその時代に生まれ活躍した。これらの時代、特別な教育機関でない限り、「読み・書き・そろばん」以外を今のように教えることはなかった。現在の学校教育は時代も変わったこともあり、「読み・書き・そろばん」だけでは済まなくなってきている。現代の先生方は週休2日制に変わり授業時間が短くなった。しかし、教えることが多くなってきている。特に小学校の先生においてはこの数年それが顕著である。学問を教えることは言うまでもないが、基本、学校とは社会を想定した集団生活の適応性を教えているのである。ここで言う集団生活の適応性とはあくまでも「集団生活に対応して」である。もちろん、その中で個性を尊重しながら問題があれば個別の指導もする。しかし、子どもの個々指導に関しては、よっぽどひどいことがないかぎり、指導出来ない。「指導しない」のではなく、「出来ない」のである。これは通り一辺倒の書類でしか、その子の家庭環境を知ることが出来ないからである。

いつも書いていることだが、子どもの教育の第一は家庭教育にある。就学前までに子どもにしっかりとした「親としての躾(しつけ)教育をする」ことが大事なのである。この基礎的な行動規範ができていると言うことを前提に、学校では教育を行うのである。小学校に入学してもまだオムツに頼っている子はほとんどない。これも私の言う基礎的な行動規範のひとつである。
出生から幼少期ころまでは、親の育った環境や教育度合いによって格差はあるが人間の基本となる「躾」をその親なりに一生懸命する。しかし、小学校へ入った頃からいつの間にか、親は子どもの教育を学校に任せっきりになってしまっている。学校で教えられること、教育できることには限りがあることを親が理解できていないからであろう。担任の先生は学年ごとに変わるのは当たり前。ずっと子どもに向き合っているのは、親だけである。子どもに対する教育は学校に任せっぱなしにするのではなく、親が社会に出るまでしっかり続けていかなければならないのである。

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