COLUMN

コラム

「知識」という言葉を辞書で引くと「物事について知っていること。その知り得た内容。」とある。
ボーッとしていることが嫌いだからかもしれないが、歳を重ねても知らないことがたくさんあり、色々な新しい知識を得ることは実に楽しい。
子どもたちは授業を通して、みんながほぼ同じ情報を与えられ「知識」として習得していく。不思議なもので子どもは自分が興味を持ったものには、大人顔負けの情報を持つ。好きなことであるならば、ドンドン知識を習得していく。

誰でも「知っていると知らないのとでは、こんなにも違うのか。」という経験をしたことがあると思う。
私は昔から「知識が多ければ多いほど知恵が湧く。」と言ってきた。
これもまた「知恵」という言葉を辞書で引いてみると「物事を考え、判断し、処理する心の働き。知能。」とある。
学校の授業は「知識」の習得の場である。国語・算数・理科・社会・英語などの教科を通して「知識」を習得していくのである。その習得状況(量)をテストという物差しによって判断しているのが、今の学校である。どれだけ教えたことを覚えているのかを測り、より多く覚えている子どもが評価されているのである。まったくの暗記の世界である。より多く暗記できる事が評価の基準となっている。私は、これは違うのではないかと昔から思っている。
「知識」という情報をしっかり理解し、得た「知識」をかけあわせて「知恵」としてうまく使える子どもが本来は評価されるべきなのではないだろうかと思っている。たくさんの「知識」を得たとしても、その「知識」が「知恵」として生かされなければ何の意味もない。そうできる子どもを多く育てる考えが欠如している今の教育システムに疑問を持たざるを得ない。前にも書いたが、学校は社会に出て行くための養成所。社会に出れば、常に問題解決型人間が求められる。「知識」を「知恵」に変える、その能力がなければ対外的には戦えない。

ある難関私立校の校長先生が「学校の教科書だけでは、うちの試験は解けない。授業で教科書を使い同じ知識が与えられ、その中で一番覚えた子を選ぶのではなく、その知識をしっかり理解してうまく使える子どもを選んでいる。」と言っていたことが印象に残っている。
これからの学校は子ども自身が得た知識から「これをやってみたい。」「ああしてみたい。」と思い・考え・工夫する事を評価する方式、教育環境に整え直すべきではないかと思う。

出典:旺文社国語辞典

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